○○家のお金
旦那さんが会社のBBQからなかなか帰ってこない。
コメダ珈琲で待つわたしは、そろそろ暇になってきたので、ブログでも更新しよう。
今日は大学時代の先輩とランチに出かけた。
わたしはこの先輩が好きだ。
わたしとは全く異なるタイプの人間で、
バリバリ働いていて、さっぱりした人だ。
それでいて、堂々としている。
人との違いを受け入れ、認め、「違うこと」を不快な要因にさせないし、共感を強要しないし、建前で共感しようとしない。
久しぶりに会った先輩だったが、
とっても楽で、本当に楽しかった。
わたしはいま、事実上専業主婦である。
そのことを、先輩にも話した。
それと同時に、悩みも打ち明けた。
「お金でしかできないこともあるのに、
その負担を旦那さんひとりに抱えさせている」
という悩みである。
強調しておきたい前提が、
「わたしはいまとてもしあわせだ」ということである。
なので、その悩み自体が、不満になっているというわけではない。
ただ、わたしもお金を稼いでいたら、もっといいのになぁ、とどうしても思ってしまう。
旦那さんが働きに出てくれている一方、
わたしも、無理のない範囲で、できることをしているつもりだ。
特に、買い物と夜ご飯作りは、毎日ちょびっと考えている。
お家に帰って来た甲斐があった、と思ってもらえるご飯は、大事かなと思うのである。
でも、でも、ご飯を作っても、
結婚式を挙げるには金がいる。
新婚旅行に行くには金がいる。
車を買うには金がいる。
その「カネ」でのサポートはできないということが、どうしても引っかかってしまう。
先輩がジムに通っているという話をしていたとき、ホットヨガの時間帯が、平日の午後2時であることに不満を言っていた。
そんなの、有閑マダムしか行けねえよ!とのことである。
わたしは行けるな、と思った一方、わたしはその有閑マダムにはなれない、と漏らした。
旦那さんが稼いできたお金で、平日の昼間にホットヨガに行くことに、罪悪感とまではいかないが、コレジャナイ感を持ってしまうのだ。
どうしても、「旦那さんのお金」の呪縛から解き放たれない。
せめて、自分の行動にお金を使うにしても、それが明らかに旦那さんのメリットになる!ということでないと、そういう理由がないと、消極的になってしまう。
もうひとつ、平日の昼間、旦那さんは一生懸命働いてくれている。
その間、わたしはホットヨガを…
するとして、心から楽しめるのだろうか…
無論、いまその時間帯わたしが一生懸命働いているかといえば、のんびりさせてもらっているのだが(最初はこのことにもかなり抵抗があって、よく自己嫌悪に陥った)、そこにお金がかかってくるとなると、納得できないのである。
ちなみに、旦那さんは、ヨガでもなんでも行ってこいと言ってくれている。
この話をした後、先輩はけろっとした顔で、
「いやいや、旦那さんのお金じゃなくて、○○家のお金でしょ?いいじゃん」と言う。
自分は、働いている身なのに、
お金を稼いでいる人なのに、
旦那さんと同じ立場から、
いいじゃん、と言うのである。
それが、当たり前のことをであるかのように、呼吸するように、顔色ひとつ変えずに言うのである。
わたしにはこの感覚が備わっていない。
なぜだ?なぜなのだろう?
旦那さんは、むしろ「行ってこい」と言ってくれている。
その好意を受け取らない理由は何だ?
「そんな、いいですよ」みたいなことか?
夫婦って、そんな他人行儀なものなのだろうか。
少なくとも、わたしが行なっていることはそういうことだ。
思えば、こういう状況になるまで、
わたしの中では共働きが絶対だった。
子育てをするうちは、家にいたかったが、
在宅勤務をするか、手当をもらうか、
「稼ぐ」という状態は、何かしらの形で保つ予定であった。
現在、傷病手当をもらってはいるが、
これはちょっと特殊で、わたしの中の「稼ぐ」に当てはまらない。
子育て中の手当ては、「子育て」という仕事をしているから得られる、という認識が頭のどこかにある。
どちらの手当ても、「就労が難しいからその間のヘルプ」であることは同じなのだが、
わたしの中で、明らかな線引きがある。
とにかく、「共働き」には、わたしの存在意義があるし、「子育て」にも、わたしの存在意義がある。
そうか、わたしはこの「存在意義」に囚われているのではないだろうか。
ご飯を作ること、家事をすることも、わたしの「存在意義」にはなるが、そこにカネという概念が介入すると、話が変わってくる。
子育てをしている間に使うお金は、「子ども」という理由ができるだろう。
リフレッシュのためのお金ですら、「ストレス発散して、子どもとちゃんと向き合い続けるため」と理由をつけられるだろう。
だから、旦那さんが稼いでくれたお金を使っても、いまより抵抗はないかもしれない。
でも今は?
旦那さんが働いている間、大体ほげっとしている。
ご飯を作ったって、多少家事をしたって、旦那さんの大変さには敵わない。
かといって、家事サイボーグになろうとは思わない…
旦那さんが、好きにしなって言ってくれるのに見合う働きをしていない。
そこで無理をして、家事をスーパー完璧にこなすのは、また話が違う。
それは、今せっかく休んでいる会社に復帰して、辛い思いをするのと同じだ。
お金が払われること以外は。
この「お金が払われること以外は」は、
多くの人が囚われている考えだろうな、と感じる。
どうせ辛いなら、その代償にお金をもらおう。
いまわたしが分析していても、その結論に至っておかしくない。落とし穴だ。
この結論に至ってしまう、
わたしが勘違いしている前提は何なのだろう。
旦那さんと同じくらいの苦労を自分がしていないことか。
というか、旦那さんと同じくらいの負担を自分が負っていないからか。
毎日8時間働いて、お金を稼いでいれば、おんなじ。
旦那さんが働いている間、わたしが子育てに翻弄されていれば、おんなじ。
「○○家のお金」は、夫婦がふたりでおんなじだけ大変な思いをしてできあがるもの。
つまり自分が「大変じゃないこと」が原因なのか。
それか「自分の分も支払えないくらい自分のお金がないこと」。楽してでも、お金さえ稼いでいれば、この悩みは抱えない気がする。
楽しくお金を稼ぐ、という生活には、
まずこの固定観念をどうにかしないと、辿り着けない気がする。
純粋な「楽しい」が見つけられない気がするからだ。
無意識に、「大変」のフィルターをかけているから…
いまふと気がついた。
旦那さんが大変だから???
旦那さんが、大変だから、こう感じてしまうのか???
やばい、気づいてしまったかもしれない。
だったら、旦那さんの「大変」を、減らすお手伝いをすればいいのである。
それで、一緒に「大変」を乗り越える。
あれ?????????
ん?
いまはこれでいいのか??
そうか、わたしは家事を、「自分の仕事」だと思っていた。
夫婦は、家族は、「生活を送る」が一大プロジェクトなのか。
それで、旦那さんが、「家族のお金を稼いでくる」担当で、わたしが「お金を使ってご飯を作ったり生活用品を買う」担当、「生活環境を整える」担当なのか。
そしてお金は、家族みんなのものなのか。
お金をどう使うかは、家族みんなで考える。
考えた上で、旦那さんは「いいよ」と言っている。
お金でしか買えないものは、確かにある。
でも、プロジェクトには、バランスがある。
そのバランスは、家族によって違う。
わたしと旦那さんは、いまのバランスが良くて、お金を貯めるスピードが遅くても、いまがしあわせだという事実は変わらない。
そうなのか。
母親に結婚式を急かされて、「わたしもお金を稼いでいれば…」と思っていたが、それは母親のエゴだ。
わたしは、家族を持って、その一員なのだ。
うちにはうちの事情がある。
わたしには、「うち」があるのだ。
あっでもな
旦那さんがある日、「俺もできるなら専業主夫がやりたい」と言っていたのを思い出した。
わたしが女社長だったら…
わたしは、専業主婦を最初から選択したわけではない。
在宅で子どもと一緒にいながらお金を稼ぎたい。勿論たくさんお金がほしい。
それが実現できれば…!
いまプロジェクトは進行している。
でも、プロジェクトに終わりはない。
大きく成長させていけばいいのである。
コメダ珈琲に3時間居座った甲斐があった。
旦那さんはやっと帰ってくるそうだ。
自分の毎日の認識も少し変わった。
ホットヨガには行かないかもしれないが、
「やりたいこと」にもう少し積極的になれそうである。