もすもす日和

思ったことを思ったままに綴るだけのブログ。

わたしの転機は旦那様

わたしの転機と言われると、

旦那さんと出会ったことだと思う。

 

旦那さんと出会ったのは去年の3月、

交際開始は去年の6月、

入籍は去年の11月で、かなりのスピード婚である。

 

旦那さんと出会ってから、

わたしひとりの人生に焦点を当てると、かなり人生が変わった。

 

わたしはそれまで、就職をまわりの目で決め、

うまくいかずに、転職を繰り返していた。

 

1社目は、大学時代にゼミでも取り扱っていた内容と関連する会社に勤めた。

上場企業だけど、歯車になるほど大きすぎる会社ではなく、

総合職の正社員で、給料もそこそこ良い会社だった。

友人に「もすは一本筋が通っていていいね」と言われ、「よしっ」と思った。

しかし、「働く」ということについて、何ひとつ考えていなかったので、

長い通勤時間、休みといえない昼休み、体育会系な社風。

「会社に勤める」ということの、いろんな面に疲弊して、

入社して2ヶ月で辞めた。

とにかく一刻も早く会社を離れたかった。

 

転職活動を3ヶ月ほど行い、2社目の会社に入社した。

とにかく穏やかに働きたかったので、中小メーカーの営業事務に就いた。

母の「一般職でいいじゃない」の一言も、後押しをした。

母自身、一般職で働き、父と社内結婚して寿退社した身なので、

わたしにも、そういう安心安全な人生を送ってほしかったのだと思う。

 

お局さんとうまくやれるようになるまでけっこうメンタルがやられたが、

仕事自体はぐんぐんできるようになっていった。

そのせいか、「働くこと」に対する余裕が出てきて、

毎朝早めに出社してオフィスを掃除することや、

お茶当番、洗濯当番、トイレ掃除当番がある古い体制、

けっこうつまんなくなってきた仕事内容、

お局さんたちの顔色をうかがいながら過ごす日々に嫌気がさし、

ある記事が目に留まったことがきっかけで、

システムエンジニアになろうと決めた。

もう会社勤めは嫌だ。手に職つけて家で働いてやる。

母と妹の呆れ顔と困惑、父の心配と小さな声援を受けながら、

会社を辞め、無料で3ヶ月間通えるスクールに通い始めた。

 

スクール終了後、3社目となる会社にシステムエンジニアとして入社した。

しかし、研修が終わると、客先に出されて、

チームリーダーの補佐として、日々事務仕事をこなしていた。

オフィス引っ越しの時は、「もすさんは引っ越し隊長です」とか言われた。

いや、メインで技術的な作業している合間の引っ越し隊長なら分かりますけど~。

 

煮え切らない思いを抱えたまま過ごす日々の中、

わたしはこの客先で将来の伴侶に出会っていた。

しかし、互いにコミュ障を存分に発揮した結果、

距離が近づいたのはフリーランスの彼の離任が決まってから、

勤務最終日間近の頃であった。

それでなんとか交際開始に至ったわたしたちであったが、

ここからがすごかったのである。

 

彼は、コミュ障を発症していた期間もずっと、

職場でのわたしの扱われ方を見続けてくれていた。

システムエンジニアとして、開発をしたいなら、と、

彼がフリーランスになる前に勤めていた会社を紹介してくれた。

すでに転職回数も多く、踏み切るのに多少時間がかかったが、

転職活動が幸いうまくいき、会社を辞めて、また新しい環境で働き始めた。

 

新しい会社では、とにかく技術・技術・技術で、とても面白かった。

その間、彼とは同棲を始めたりして、公私共に順調に思えた。

しかし、知らず知らずのうちに、自分に無理を強いていたのだろう。

わたしは会社に行けなくなり、よく休むようになった。

うつ病強迫性障害の診断をもらい、休職を開始した。

 

わたしは、自分をとにかく責めた。

彼がせっかく紹介してくれた会社なのに。

とっても良い会社なのに。

他の人たちはみんな働いているのに。普通に会社に勤めているのに。

わたしにはできない。普通のことができない。

 

それなのに、彼はあっけらかんとしていた。

「もすは、会社向いてないんだよ。」

「もすは、いいものたくさん持ってるんだよ。」

「会社に行くことで、それを潰すのはもったいないよ。」

「何か好きなことをやりなよ。」

「俺は、もすが好きなことをやっているのを見たいし、それが一番うれしい。」

 

わたしは、こういうことを言われたことが初めてだったので、

急に、世界が広く感じた。

彼自身、自分が「やりたい」と思ったことを原動力にして生きてきた人で、

まわりの意見なんてガン無視、自分がただ思った通りに生きて、成功してきた。

わたしは、自分の「好きなこと」「やりたいこと」で、

仕事を選んだこと、考えたことがなかった。

強いて言うなら、中学生の頃、親に「歌手になる」と言って猛反対され、

「あーこういう夢っぽいのって、だめなんだな」と思い込んで終わった。

システムエンジニアも、好きだとか、やりたいだとかではなく、

たまたま広告が目にとまったことがきっかけで、

「自分が面白いと感じられるもので手に職をつけられるものにしよう」

という考えを後付けして、

スクールに通って、「うん、ちゃんと面白い」と、

ずっと冷静に、ずっと合理的に、「仕事として」という風に考えていた。

 

好きなことをして生きよう。

解き放たれたように感じて、まず歌手になろうと思った。

でも、考えれば考えるほど、めんどくさくなった。

ライブでいろんなところに行くのか。旦那さんと離れたくないなぁ。

有名になったら、プライベートも気をつかうのかなぁ。嫌だなぁ。

たしかこれくらいの頃、彼とサクッと入籍したので、

わたしの意識はかなり「家庭」に向いていた。

 

そうなって気づくのだが、

わたしという人間は、家庭をかなり重んじるのである。

ずっと前から、

「子どもができたら一緒にいたい。おかえりって言いたい。」と思っていた。

これは、システムエンジニアになるときも、考えの主軸に置いていた。

だから、手に職、手に職と言っていたのである。

 

もうひとつ、気づいたことは、

好きなことを仕事にすることはできるが、

仕事になったときに好きなことであり続けるかは別問題だということだ。

わたしは、歌うことは好きだが、

仕事として創っていくモチベーションがない。

好きなときに、フンフンハンハン歌っているのが好きなだけである。

学生時代、アカペラサークルに所属していたが、

それは、楽譜が用意されていて、ステージが用意されていたから続けられた。

自分で楽譜を作ったこともあったが、

知識がないのでよく分からない感じに仕上がり、

かといって、知識を身につけようとも思わなかった。

すべて揃っている状態で、あとは歌えばいいだけ。くらいにならないと、

わたしは歌わない。

どこかのオーディションを受けて、仮に受かったとしても、

組織に所属する=歌っていればいいだけじゃないので、

やっぱり選択する気になれないのである。

 

絵を描くことも好きだが、

これもまた、描きたい!と思ったときに描くのが好きなだけで、

それを日課とかにしてしまうと、めんどくさ、となってしまう。

しかも、サラサラ描けるほどうまいわけではなく、

1回1回時間がかかるので、尚更だ。

 

好きなことを仕事にするって、単純なことだと思っていたが、

わたしが「好きなこと」だと思っていたことは、

気晴らしのようなもので、「夢中になれるもの」ではなかった。

 

今は、その「夢中になれるもの」を探している。

それは、「全エネルギーを注げるもの」とはちょっと意味合いが異なっていて、

寝たい、食べたい、と並ぶくらいの「〇〇したい」を探している。

そして、それで自分を売りたい。呼吸するように、自分を売りたい。

 

旦那さんに出会えていなかったら、

わたしはずっと、自分に対して強迫的であり続けたかもしれない。

自分の生き方に「真っ当な」理由をつけ続けたかもしれない。

毎日、「何のために生きているんだろうな」と思い続けていたかもしれない。

 

3社目の会社の上司に、相談したことがある。

「毎日、目を覚ますと、何のために生きているんだろうな、と思うんです。

現状でこういう状況なので、常駐先変更は受けかねます。負担です。」

上司の答えはこうだった。

「まず、何も考えずに起きて。そしたらいつの間にか会社についてるし、

お金も入ってくるから。」

わたしは、泣きながら「わかりました。」と言った。

 

今、その頃からは考えられないくらい、

毎日「生きるのたのしい!」なのである。

何のためかと問われれば、自分のためと、まわりの大事な人のためである。

病状も、かなり改善されてきた。

やっと、自分のためのスタートラインに立てている。

それまでの紆余曲折も、苦しみも、

ひとつずれていたら、旦那さんに出会えなかったかもしれない、と思うと、

不思議なことだけど、全部正解だと感じてしまう。

わたしは、本当に幸運だ。

 

これから、どんな未来が待っているだろう。

未来に、不安ではなく期待を抱けるようになったのは、いつぶりだろう。

旦那さん、出会ってくれてありがとう。

わたし、旦那さんを見つけてくれてありがとう。

 

以上、わたしの転機は「旦那様」である。