もすもす日和

思ったことを思ったままに綴るだけのブログ。

60点は100点

昨日、本当に何の気なしに、

「今日のわたしは60点くらいかな~」と考えている自分がいた。

 

そのことに気づいたとき、とてもびっくりした。

以前勤めていた会社で、

「毎日100点を取ろうとしたら、疲れちゃうし、無理だよ。

60点でいいんだよ。」と度々言われ、

毎日60点でいることを

わざわざ意識しながら生活していたからだ。

 

当時は実家に暮らしていて、

昔妹と共用していた2段ベッドの下の段に寝ていたわたしは、

上の段の裏の、寝たときにちょうど自分の目の高さに合う位置に、

「60点でいいんだよ」という文言と、

いかにもゆるそうなキャラを描いた、

小さなゆる~い手作りポスターを貼り付け、

寝る前に眺めてから寝て、目が覚めたらそれを見てから起きていた。

当時、「60点」は自分にとって、「目標」だったのである。

 

それが昨日は、

家の階段をルンルンで下りながら、

「今日は60点、ていうか毎日60点くらい!アハハ」と考えていた。

お洗濯をまわせた。10点。

洗い物した。10点。

お風呂掃除した。10点。

ごはんを作った。30点!おいしくできたし!

ん?食後にお茶を淹れた。10点。

本当は70点だったのかもしれない。調子いい。

 

というか、この調子で、できたことを挙げていったら、

たぶん前までのわたしは、毎日オーバーキルしていたはずだ。

TODOリストをとにかくやっつける。

もはやTODOリストは管理のためでなく、

「これやればやるほど偉いリスト」になっていた。

 

しかも、あれができた、これができたという考えではなく、

あれしなきゃ、これしなきゃ、という考え方だったので、

どうしても、「できなかった」にかかる重みがずっしりしていた。

いま「今日これできたから、明日これやろ~」と思えるところを、

「今日あれできなかった。できなかった。」と、

できなかったことだけが頭を占拠してしまっていた。

そのうち、

朝「60点でいいんだ」と自分に言い聞かせてから出社するようになったが、

それが毎朝自分をなだめているようで、違和感を持った。

日常を送るのに、なぜ毎朝こんなに肩がこわばるのだろう?

そして職場の席につけば、そんなことどこかに忘れ去られるくらい、

とにかく必死だったのである。

 

毎日、他人が本当に怖かった。

上司、お客様、全員が敵で、味方はひとりもいなかった。

全員がわたしの評価者だった。

それは、全員のことを嫌っていたというわけではなく、

ただ、心休まる場所が一切なかった。

休みを取ってからもしばらくの間は、

実は家族も評価者だった。

旦那さんも、旦那さんのご家族も、父も母も妹も、

自分以外の人間は全員もれなく「怖い」対象だった。

 

でも一番の敵は、

まわりの人間をそういう存在にしてしまっている自分だった。

すぐ「旦那さんに嫌われた。もう振られる!」と思った。

お買い物に行けなかったから、振られる。

洗い物できなかったから、振られる。

お洗濯できなかったから、振られる。

旦那さんの帰りを、びくびくしながら待っていた。

また、旦那さんが、優男っていうわけでもないので、

ぶっきらぼうな物言いが、わたしの思いに拍車をかけ、

それはもう毎日大変だった。

休みなのに休めていなかった。

 

今思えば、

お買い物に行けなかったから振られるって何よ…という感じだが、

当時は、薬を飲んで、眠くて、起きれなくて、

起きても、「きちんと」買い物に行けなかったことへの恐怖感と不安感で

買い物に行かなきゃと思うけど時間ばかり過ぎていって、

本当に重症だった。健康って大事だ。

 

逆に、じゃあ自分も旦那さんの評価者なのか?と考えた。

旦那さんは、生きてるだけで1000000000000点だし、

毎朝がんばって起きる。100点。

毎日お仕事に行ってくれる。100点。

うーん。これが家族感というやつなのだ。

 

お休み期間を通して、

自分がどんどん自分の味方になってきてくれているんだな、と

感じさせる出来事だった。

もうひとつだけ考えてみよう。

どうして自分はいままで、自分にとてつもなく厳しかったのだろう?

どうしていま、こういう風に生きられるようになったのか?

 

ひとつは、やっぱりちゃんと休んだからだろう。

休み始めたときは、自分の価値がすべて奪われたような気がして、

不安で、とにかく荒れ狂った。

わたしは自分の価値をステータスに依存させる嫌いがあったので、

「働いている」状態が自分からなくなったことはとにかく大きかった。

しかも、家事も得意ではない。

何もないどころか、

マイナス寄りの自分でしかいられない状況下に置かれ続けたことで、

何もない自分、ただ生きているだけの自分に価値があることが分かった。

これは本当に、旦那さんの存在がとにかく大きい。

当時のわたしと一緒に時間を過ごすことは、さぞかし大変だったと思う。

(いまもさぞかし大変だろうとは思う!)

根気強く一緒にいてくれて、感謝してもしきれない。

たぶん、自分の家族にも、以前より優しくなっている気がする。

 

もうひとつは、自分の「好き」に忠実になれているからだと思う。

正直、わたしがいま送っている生活は、

以前のわたしから考えると、あまり好ましくない。

自分が生きた痕跡を、どこかに残さないといけないと考えていた。

何か、大きいことをしでかして、注目されるべきだと思っていた。

立派な肩書が必要だった。

障がい者就労移行支援事業に携わり、社会福祉士になろう。

システムエンジニアになって、自分ひとりで何か作り上げよう。

でもそれは、特に好きだからというわけではなかった。

「立派にならなければ」という思いの方が、よっぽど強かった。

 

いまは、別に「立派」ではない。

でも、毎日が大好きである。

生きるって、楽しいなって思うのである。

毎日家にいて、家事をして、たまに遊んで、ブログを書く。

このような生活を、

「生きてる!って感じがしない」と嫌う人がいることも知っているが、

わたしは、すごく生きてる!と思うし、楽しい。

いままで、ある意味恵まれすぎていた。情報過多だったのだ。

いまが、自分にとって、本当に恵まれている時間なのだと感じている。

 

今日も、100点満点の自分に、加点するとしよう。

お洗濯は、雨が降る予報なのでなし。明日の午後予定。

お買い物も、明日がポイント2倍デーなので明日の予定。

お掃除。10点。

洗い物。10点。

風呂掃除。10点。

ごはん!30点!!!

本当はほかにやることたくさんあるんだけれども。

じゃあ今日はその中からひとつだけやろうかな。よく言った。30点。

 

あ~全部やったら100点になってしまうよ~。

しあわせな悩みを抱えながら、

今日もプライスレスな旦那様の帰りを待つのであった。