自己紹介③
自己紹介はこの記事で最後になる。
去年の3月中旬、わたしは今の旦那さんと出会った。
5月末にフリーランスの旦那さんが離任する直前まで、
わたしと旦那さんはほとんど関わりがなかった。
でも、ずっと気になっていた。
6月1日、わたしたちは結婚を前提に交際を始めた。
職場でのわたしの扱われ方を目の当たりにしていた旦那さんは、
以前旦那さんが勤めていた、もっと技術的な業務ができる会社を紹介してくれた。
6月に会社を退職し、7月中旬からその会社で働き始めた。
とても良い会社だった。
不器用なおじさんばかりの小さい会社だが、
システム開発業務ばかりできるし、全員マイペースだけど、
入ったばかりのわたしのことも気にかけてくださる優しさがあった。
だからだろうか。わたしはうつ病になった。
こんなに良い環境のはずなのにそれでもうまくいかない。
良い変化が、逆に自分を責める要因になってしまったのかもしれなかった。
10月、わたしは休職を開始した。
強迫性障害だと診断された。
あーそうか。
たぶん高校くらいから、ずーっとそうだったんだろうな、と思った。
いい子ね、いい子ね、と育ってきた。
ずっといい子でいたかった。
大人に認められたかった。
大人に対して、はぁ?と思わないようにしていた。
ブチギレられる前に、ごめんなさい、と言えるのが偉かった。
嫌な気持ちにさせる前に、怒涛のフォローをできるのが偉かった。
誰かが自分を責める前に、自分で自分を責めれば、
あら、分かっているじゃない、それなら言う必要ないわね。と、
いい子を守り続けられると思っていた。
家にいながら大学を休むときは、「講義が休講になった」と「体調が悪い」を、
絶妙な頻度で使い分けた。
直接会っているときにいい顔をした分、ツイッターでたくさん文句を言った。
まわりにとって「在るべき姿」ばかりを考え、
それを実現したときにステータスになった。
「帰国子女で高学歴でどこにいてもどの年代にも好かれて常に行動に正当な理由があって勝ち組」は、いつしかマイルールになっていたのだ。
あんなにサボっているのに、結局一橋大学。
あんなに遊んでいるのに、ゼミナールでもテーマにしていたことで一本筋の通った就職。
あんなにバカそうなのに、誰とでもうまくやれて実は賢い。
バカになるのも、フットワークを軽くするのも、全部全部一生懸命だった。
怒られるときは、自分ができていないとき。自分が許されないとき。
必死になって、限界まで必死になってもできないと感じたとき、
一気に自分の価値が無と化していたのであった。
しかし気づいたのだ。
留年したとき、家族はわたしに精一杯の優しさをくれた。
サークルの仕事がうまくできなかったとき、まわりが真っ先に言ったことは、
もっとまわりに仕事を振っていいんだよ、だった。
小学校の先生は、わたしの数ある失敗をひとつも責めなかった。
勿論責められたことも、厳しい状況もたくさんあったけれど、
自分にとって大事な人は、最悪な状況でも自分のことを大事に思ってくれていたのだ。
11月22日、わたしは旦那さんと結婚した。
休職中なのに、いつも体調悪そうなのに、ずっと家にいるのに、強迫性障害なのに、
わたしのいいところは、わたしと一緒にいたい理由は、
もっと別のところにあるらしい。
会社にも、結婚を報告した。
休職中に何やってんの?なめてんの?と言われるんじゃないかと思ったが、
杞憂だった。
この間、復職までもう少し時間がほしいと伝えたら、
いつまでも待ってますとおっしゃっていただいた。
そうだ、わたしはこの会社に入社するために、面接を受けたんだった。
受け入れてもらったから、この会社にいて、今休職しているのであった。
たぶん、いい子でいたいことも、転職に理由をこじつけていることも、
たぶん、まわりの人はみんな分かっていた。
それでも、そうしてでも一生懸命もがいているわたしを、
みんな好きでいてくれたのだろう。
だから、わたしはわたしのまま、いまやっと、休憩できるのである。
とはいえ、長らくそういう性分だったので、
休憩中だというのに、
「働かないと」「また歌手を目指そうかな」
「歌手じゃなくても、音楽が好きだから音楽業界に」と、
気づけば悶々と考えてしまって、旦那さんにコラコラと言われる始末である。
まずは、休憩できるようになろう。
そのために、このブログを始めようと思った。
なんでもいいから、毎日思ったことを綴っていこう。
もしかしたら、同じような悩みを持つ人のちょっとした手助けができるかもしれない。
でも、一番助けたいのは、自分だったりする。
せっかくここまで気づけて、ここまで良くなったんだから、
もう、自分のことを自分の奴隷にすることはやめたい。
今後の長い人生を愛しいものにするためのヒントになるようなブログにしたい。
ながーい自己紹介は、これにて終了とする!