もすもす日和

思ったことを思ったままに綴るだけのブログ。

歌うって本当はすごく簡単だ

大学生活5年間、

わたしはずっとアカペラサークルで活動していた。

アカペラというのは、

ボーカル・ギター・ベース・ドラムという楽器のバンドに例えると、

ざっくり、楽器のバンドでいうボーカルがひとり、

コーラスという、楽器のバンドでいうギターが3、4人前後、

ベースがひとり(声でベースの音を出す)、

ボイスパーカッションという、

楽器のバンドでいうドラムが、いたりいなかったりする形態の、

人の声だけで音楽を創る行為だ、とわたしは思っている。

よく、合唱と間違われるが、

合唱と違うのは、ひとりひとりに異なる役割があることではないか、

とわたしは考えている。

合唱は、アカペラより大人数で、

同じメロディーを歌う人が何人もいるが、

アカペラは、ひとりひとりが、自分しか担当がいない。

 

アカペラをしていたとは言うものの、

わたしが担当していたのは、ほぼほぼボーカルであった。

コーラスを担当したのは、数えるくらい。

音楽全体を創る側より、音楽の決め手を任される側が圧倒的に多かった。

 

そのプレッシャーからだろうか。

5年間、大学の勉強よりも歌ってきたし、

卒業してからも、年に1、2回、

歌うチャンスがあったりもする。

しかし、人前でうまく歌えたことは、3回しかない。

 

 

1回目は、大学1年目の夏合宿。

初日に講師の課題を受け、

適当に組まされたバンドで課題曲を歌うのだが、

このときの未来予想図IIは、未だにいつ歌っても越えられない。

 

2回目は、大学3年目の夏合宿。

夏合宿の期間をかけて、1曲を完成させ、最後に発表するのだが、

この発表がとてつもなくうまくいった。

 

3回目は、ある学祭でのストリートライブ。

サークル関係者以外のお客さんに

ちゃんと楽しんでもらえたな、と感じたのは、このときだけだ。

 

すべての回に共通していることがひとつだけある。

それは、「何も考えていない」ということだ。

もっと厳密に言うと、「うまく歌おうとしていない」と言える。

 

1回目は、とにもかくにも緊張していた。

だから、とにかく大きい声で歌おうと思った。

頭の中はそれだけだった。

2回目は、発表前のMCのようなタイミングで、

ニコント的なものをしたのだが、とんでもなくスベった。

スベったことと緊張に気を取られて、あっという間に終わった。

3回目は、覚えていない。ただ落ち着いていた。

本当にたまたまだと思う。

 

逆に、これらのとき以外で歌ったときは、

大体、うまく歌おうとしていた。

歌う予定の何日も前から、うまく歌おうとしていた。

そのせいか、ライブの日はほぼ絶対体調が悪かった。

本当に呪われたように、ライブの日ピンポイントで、

さらに喉にピンポイントで、何かが住みついて悪さをしていた。

「instrumental version feat. もすの微かなうめき声」を、

聞き手に2回ほど聞かせたことがあるが、

そういうときに限って、お洒落で高めなライブハウスだったり、

ソラマチのクリスマスツリーの前だったりするのである。

バンドのメンバーに申し訳なくて、申し訳なくて、

本当に、申し訳ないのである。

 

しかし、歌うって、そんなに難しいことだっただろうか?

普段、日常生活を送りながら、よく歌っている。

料理を作りながら、お風呂を洗いながら、洗濯物を畳みながら、

ふと気づけば歌っている。

気分がのった日は、そのままガチめに大声で歌っている。

こういうときの方が、人に聞かせたりするときよりも断然うまかったりする。

 

ずいぶん前の話だが、

小学校高学年くらいの頃、

わたしはトイレにこもりながら、確か宇多田ヒカルかなんかを歌っていた。

トイレを出てから、父親が声をかけてきた。

「あれはおまえが歌っていたのか。トイレでCD流してんのかと思った。」

親の欲目100%か?という気しかしないが、

それくらい、気を抜いているときの方が、俄然、うまいのだ。

 

こういうのは、歌だけじゃない。

就職の面接だって、変に取り繕わないで、

聞かれたことに対してそのまんまの自分で答えた方がいい。

「えーと」とか言っていい。はにかんでもいい。

「この業界のほにゃららに興味を持ち、

御社のうんちゃらに感銘を受け」と並べ立てるより、

「開発したい。たのしい。」

「子どもと一緒にいたいから手に職つけたい。目指せワーママ」

とか言ってる方がうまくいった気がする。

 

単純に人に会っているときだって、

「ここでウケを狙う」「ここでいい感じのこと言う」

とか考えないで、ヘラヘラしている方が、盛り上がるし楽しい。

まわりが勝手に自分のいいところを見つけてくれる。

 

そう。これなのである。

「まわりが勝手に自分のいいところを見つけてくれる。」

 

わたしが自分の歌に自信を持ったのは、

小学生のときのカラオケで、「もす歌うめー」

中学生のときのカラオケで、「将来歌手になるの楽しみにしているね」

まわりの人たちからのこういう反応が積み重なったためである。

 

面接だって、

「君はこういうところがあるね。」

「そうかもしれません。ああいうときもこう考えてこうしました。」

「そうだよね。じゃあ質問を変えてみよう。これはどう?」

と、変に勘繰らずに思ったままに話せば勝手に向こうから聞いてくれる。

 

飲み会の前、

出てくるであろう話題を脳内で列挙し、

その話題に対する自分のコメントと話の進め方を考えておく。

しかし、準備していた発言ができたところで、

そこで何か収穫を得ることはほとんどない。

それどころか、聞き流されていたり、他の人に被せられたりする。

それで、「うまくいかなかった~」とほげーっとしながら話していると、

何かがウケたりする。

いまわたし面白かったんだ。ウケる。となる。

 

人との違いというのは、自分が自分でいることで出てくるものだ。

学生時代、サークルにいた頃、

所属していたサークル員の多くがシビアだったので、

「こういうところが良くない」というコメントをたくさんもらったが、

今では、気にしなければよかったな、と思っている。

気をつけていれば、そこだけは改善するかもしれないが、

全体としての「自分」のクオリティーは一気に下がるのである。

そこに気を取られて、変なところに力が入る。顔が強張る。

みんなが歌うような歌を歌う。

気にすることで、ただの「その辺の人」になっていく。

それで、「うまく歌えない」と嘆く。

自分で、歌うことを難しくしてしまっていたのである。

そもそも、歌うことに関して言えば、褒められてきていたものなのだ。

それをどうして変える必要がある?

 

歌うって、本当はすごく簡単だ。

というか、生きるって、本当はすごく簡単なんじゃないか?

 

次は、いつ人前で歌う機会があるんだろう。

1回、急に訪れてくれないかな、と思うのである。

急に、いまいる家が真ん中で割れてパッカーンと開いて、

寝癖ですっぴんでパジャマで、歌わざるを得ない状況が作られて

 

それだったら、きっと最高にうまく歌える気がする。